決まったやり方はない、順番がある
いろいろ頑張ってるけど、なんかしんどい人へ
本当の自分を生きたい。というと月並みな表現かもしれませんが、自分の実力をちゃんと本領発揮したい。
本当の自分を生きたい。というと月並みな表現かもしれませんが、自分の実力をちゃんと本領発揮したい。自分の中に眠っている可能性を、ちゃんと開いてあげたい。
そう思って、これまで本も読んできたし、いろんな動画も見てきた。心や体に働きかけるワークもやってみたし、自分を見つめるための日記も書いてきた。そうすると、確かにいろんなことが分かって、しみじみ涙があふれたこともある。
でも、やっぱり、変わらない。
この文章は、そういう方に向けて書いています。
先に結論を言うと、あなたはやり方を間違えているわけではありません。というより、確立された「やり方」というものは、実はないんです。ただ、「順番」というものが、どうもある。
「分かった」と「変わった」は、別のもの
「分かった気になる」ということと、本当に変化するということには、大きな違いがあります。分かった気になるというのは、体験との間に距離があり、知性によるおさまりなんです。
それから、こういう感覚はないでしょうか。周りからは「しっかりしているね」と言われる。でもそれは「期待されていることをやっているね」という意味にすぎない。自分が生きたい人生を生きているわけではない。だからふと、「これって、こなしてるだけじゃないだろうか」と思う。
もしそうだとしても、それはあなたの責任ではありません。自分自身にアクセスしないまま外側の要望に応じ続けているのだから、中から何も出てこないのは当然、やりたいことがわからなくなるのも当たり前なんです。
ここで一つ、大事な注意点があります。何かを学んで、正しい方法を掴んだら、「なるほど、そうするんですね。じゃあ、そうしてみます」と、やり方の段取りに自分を合わせにいく。仕事や外の世界に対して、そうやって適応していくのは全然いいんです。むしろ大事な力です。
でも、心の世界や自分ごとに対して、同じことをやってしまうと。それは、自分という生き物を全然見ていなくて、外側のやり方に自分を無理やり合わせようとしているということなんです。控えめに言っても、一番やってはいけないことです。
多くの人が、そのことに気づいていません。だから、「頑張っているんだけど、なんかしんどいんだよな」という、漠然とした感じだけが残るんです。
本当に変わっていないわけではない
本当に変わっていないかというと、おそらくそんなことはないんです。ご自分が無意識のレベルで、つまり自覚はしていないけれども、ふとした時の振る舞いや反応は変わっている可能性がある。でも、自分がいつも見ている場所の自分は、変わっていない。そういうことなんです。
例えて言うなら、双葉はもう別の場所に芽を出しているのに、元の場所で変化が起きるはずだと思い込んで、その元の場所を何度も見ては「変化がない」と言っている。そういうことが、僕たちにはよく起こります。
決まったやり方はない、順番がある
自分を変えていくというのは、実はとても難しい取り組みです。
なぜならば、自分というものはそんなに狭い領域のものではなく、生き物として非常に広い領域にあるからです。自分が知っている自分だけではなく、それを支えている体の状態、日頃の自分自身とのコミュニケーション、反応の仕方などが、複合的に影響し合っています。
分かった時の自分は「気づき」の領域にいる自分であり、がっかりしている自分とは、また別の場所にいるのです。
ステートというのは、状態のことです。僕たちは、その瞬間瞬間に、いろんなステートに移り変わっていきます。自分の状態、イコール、ステート。あるステートから離れると認識が変わってしまい、そのステートに入ると、また認識が戻ってくる。そんな魔法のようなことを、実は日常的にやってのけているんです。
でも、気がつかないから、自分のステートに振り回されてしまっている。ある時はとてもやる気に満ちて、リソースフルで、気づきに満ちたステートにいるけれど、ずっとそこにいるわけではない。ある瞬間には、あの気づきが嘘であるかのように、全く違う自分になってしまう。「なんだか掴んだ気がしたけれど、よく分からなくなった」というステートになる。がっかりに繋がりやすいのは、そのせいです。
人生には、長い時間をかけて移り変わっていく段階、ステージがあります。でも、同じステージにいたとしても、ステートの方は刻一刻と変化していく。だからこそ、「さっき掴んだものって、何だったっけ?」ということが起こるのです。
これは決して悪いことではありません。無理にそのステートを維持し続けなければいけない、というものでもありません。「そういうものだ」と、まず理解すること。実はこの理解そのものが、セルフコンパッション、自分への思いやりや、自己受容に繋がっていく話なのだと思います。
そこに対しては、知性による理解も必要です。人というのは単一のものではなく、色々な自分の複合体です。ポージェスという学者が提唱したように、僕たちの神経系だって複合体なんです。それなのに、まっすぐ、リニアに、線形に何かを変えようとする、その取り組みそのものが合っていない。本当は蛇行していたり、揺らいでいたりするのが命の自然な姿なのに、まっすぐ変えようとするから、思った通りにならないのは当たり前なのです。命は、ノンリニア。非線形なんだ、ということを、分かっておく必要があります。
だから、その複合体の中で何かをまっすぐ変えていこうとすると、必ず、全員迷子になります。あなただけではありません。
やり方を間違えているというよりは、確立されたやり方がない。けれども、どうも「順番」というものはありそうだ、というお話なんです。
なぜ順番が効くのか
順番の話をする前に、少しだけ、その背景の話をさせてください。
植物は、育つのをサボったりすることはほとんどないでしょう。僕たちだって、呼吸をサボったりはしません。もっと深いレベルでは、命は何かを形にして、自分であろうとすることをやめることはないのです。
人間が生まれる以前からあった宇宙の動きの中には、シンプルなものから複雑なものを形作ろうとする流れがあります。昔の人はこれを「タオ」と呼んだり「天命」と呼んだりしました。大きな流れがあって、それが自分の心や方向さえも形づける背景にある。
だから、あなたの中のあの「何かが違う」という感覚にも、目的があります。目的がない感情は存在しません。本当に生きたい状態に対して「何かが違う」と訴えている、その声なんです。建設的な違和感。ここに注目してあげると、その奥に、本来の生きたい人生の兆しが始まります。
つまり、変化は、頑張って作るものではなく、もともと流れているものに合流するもの。だから「順番」なんです。流れに合流するには、正しい努力より先に、整えるべき土台がある。
安全地帯は、頑張って作る場所ではない
その順番の最初が、「安全地帯」を作ることです。
と読んだ瞬間に、「ああ、また何か増えるのか」と思いませんでしたか。大丈夫です。安全地帯というのは、すごくシンプルなものでいいんです。やることを増やすのではなく、むしろシンプルに減らしていくこと。
僕にとってそれは、散歩道のようなイメージです。遠くの目的地ばかり見ていると、「あんなに遠いのか」「本当に足が持つだろうか」と、かえって疲れてしまう。そうではなく、道中のちょっとしたおしゃべりを楽しんだり、近くの景色を眺めたり、ただ歩くこと自体を楽しんでみる。そうしているうちに、気がつくと目的地のすぐ近くに来ていたりする。
例えば、「朝が来たら日記を書かなきゃ」ではなく、「朝が来たら日記を書いてみてもいい」くらいの緩さでいいんです。瞑想がしたければすればいいし、気分じゃなければしなくてもいい。でも一応、「今は日記を書くタイミングなんだな」と知っている。そんな緩い感じが、本当の意味での、学びの安全地帯です。
くつろぎの理屈
なぜこの「くつろぎ」が必要なのか、少しだけ理屈の話をします。理屈を知らないと、「やらなくてもいい」と言われた時に、余計に焦ってしまうかもしれないからです。
「頑張る」というのは、交感神経が興奮している状態です。逆に、向き合いすぎてやる気がなくなるのは、くつろぎすぎの状態。適度な張りは必要ですが、張り詰めすぎると疲れてしまいます。安全地帯とは、「ここはほどほどに緩んでもいいんだ」と体が理解できる場所のことです。
それに、探すときの脳と、受け取るときの脳は、使っている場所が違うんです。
脳科学の言葉を少し借りると、探そうとする時、僕たちは頭の中で、理解して、掴み取ろうとしています。その時にさかんに働く、専門的には「賦活する」と言われているのが、「背外側前頭前皮質」という、おでこの外側のあたりにある領域です。分析して、整理して、掴む。とても優秀な領域です。一方で、体の内側のかすかな感覚を受け取る時に働くと言われているのは、「島皮質〈とうひしつ〉」という、脳のもっと奥の方にある領域です。心臓の鼓動とか、内側のなんとなくの感じとか、そういうものを受け取っている場所です。
つまり、掴みにいく時と、受け取る時では、働く場所がそもそも違う。探そうとすると、どうしても理解しよう、概念を掴もうとしてしまって、受け取る力、感受する力が働かなくなる。頑張って掴もうとするほど、感じられなくなる。適度にくつろいでいる時の方が、感じる脳の動きは良くなります。
だから、「やったりやらなかったりする揺らぎ」の方が神経系には優しいと分かっていれば、安心して休めますし、無理なく取り組むこともできます。3日坊主は、決して悪いことではありません。3日空けてまたポツンとやる。1週間空いてまた次の週にやる。これも立派な継続です。「非連続でも連続のうち」と思って取り組んでみてください。
最初の習慣は、非常に原始的なことでいい。ただ座って自分の体の感覚を味わったり、地に足をつけて「ここはいつもの自分の場所だな」と落ち着いたりすること。「何もしなくてもいい」という許しを感覚として与えてあげると、文字通り、神経が休まるのです。
三つの器の地図
実はこの安全地帯、僕が「パトスの器」と呼んでいるものの入口なんです。
パトスというのは、感情や、体で感じるもののこと。だから言い換えると、安心の器です。自分の中のいろんな反応を、安心して眺めていられる、心と体に「ここは大丈夫だ」が育っていく器。ただ座って体の感覚を味わうことも、緩んでもいいと体が理解することも、全部この器を育てることです。順番の、いちばん最初の器。
でも、器は一つではありません。あと二つあります。
二つ目は「ロゴスの器」。ロゴスというのは、言葉や、筋道のこと。人は色々な自分の複合体だ、という話をしましたよね。分かった時の自分、がっかりしている自分、頑張っている自分。そのいろんな自分と、「私」との関係の器です。自分の中の関係性の器、自己間関係性の器と言ってもいい。いろんな自分の声を、意識して扱えるようになっていく領域です。
三つ目は「エトスの器」。エトスは、あり方や、信頼のこと。命はサボらない、命には形を作ろうとする流れがある、という話をしました。その流れそのものを信頼できるようになる器、自己信頼の器です。これが育ってくるとどうなるか。たとえば、疲れて何もできない日に、無理にワークをしない。ゴロゴロして、お菓子を食べたりする。そして、「どうせそんなことをしたって、また私の中の天性が元気になったらやるんだよね」と思える。そういう自己信頼です。
安心の器、関係の器、信頼の器。この順番で積み上がっていきます。まっすぐじゃなくていい、揺らぎながらでいい。でも、順番はある。
この三つの器については、それぞれ独立した一本として、これからじっくり書いていくつもりです。今日はまず、この地図だけ、持ち帰ってください。
いつのまにか変わっていた、が新しい普通になる
いろいろ頑張ってるけど、なんかしんどい。その正体は、実は、自分を整えることに、疲れていた。外側のやり方に自分を合わせ続けて、自分という生き物を見ることを、後回しにしていた。そういうことだったんです。
僕は天性ブーストという60日のプログラムの現場で、この「順番」を何年も見てきました。ここに書いたことは、その現場で実際に起きていることです。
理屈は分かっているけれど縛られず、まずは体験してみようという「軽いチャレンジ」が穏やかに始まる。この「やれそうな気がするから、ちょっと体験してみます」というライトな感じこそが、大きな違いを生みます。
そういう点と点の集まりが、そのうち線になって結ばれて、あなたの流れを生み出してくれます。
決して何かを頑張って積み上げるのではなく、普通に過ごしているうちに、いつのまにか変わっていた。そんな魔法のような体験が、「新しい普通」になっていく。
もし、ご自分の現在地を知るところから始めたければ、冒険者診断という無料の入口を用意しています。数分で、いま自分がどのあたりを歩いているのかが見えてきます。
あなた自身の「冒険者としての在り方」を見つめる入り口があります。
まだ決めきれないのは、何かが生まれている途中だからかもしれない
新しい基準が、まだ形を持つ前に