まだ決めきれないのは、何かが生まれている途中だからかもしれない
新しい基準が、まだ形を持つ前に
頭では分かっているのに、なぜかできない。 計画通りに進めたい。
頭では分かっているのに、なぜかできない。
計画通りに進めたい。 そろそろ決めたい。 「いつかやろう」と思っていることを、ちゃんと形にしたい。
なのに、なぜか前に進めない。
こういう時期がある。
パッと思いついたことを、パッと実行できればいい。 でも、そうはいかない。
「より良いものを手にしたい」 「自分の感覚を大切にしたい」 「ちゃんと納得できる形にしたい」
そう思う人ほど、むしろそこで止まってしまうことがある。
これは単なる先延ばしなのだろうか。
もちろん、そういう場合もあると思う。 ただ、全部がそうではない。
「頭では分かっているのに、なぜかできない」という時、そこにはむしろ、何かクリエイティブな息吹があるのではないか。
最近、そんなふうに感じている。
古い服が、少し窮屈になる
たとえば、仕事やこれからの活動の方向性を決めたい時。
これまでうまくいっていた成功パターンがある。 昔なら、それを選べばよかった。
このやり方で成果が出た。 この形なら人に喜ばれた。 この役割なら、自分もある程度うまく動けた。
だから今回も、その中から選べばいい。
頭ではそう思う。
でも、どこかで「それじゃない」という感覚がある。
別に、昔のやり方が間違っていたわけではない。 むしろ、それはちゃんと自分をここまで連れてきてくれたものだ。
けれど、今はなぜか、その服が少し窮屈になっている。
もうそのままでは、自分の感覚がついてこない。
発信や創作でも、似たことが起きる。
「これを書こう」 「このテーマでいこう」 「こういう形にしよう」
そう思って、一度は決める。
でも、文章にした瞬間に、何かがしぼむ。
翌日読み返してみると、やっぱり違う気がする。 言葉にした瞬間、自分の中にあった生きた感じが、少し平たくなってしまう。
あれ、さっきまで確かにあったのに。 あの熱とか、眩しさとか、内側で動いていたものはどこへ行ったのだろう。
そんな感じになる。
人間関係でもそうかもしれない。
これまで通りの役割を引き受ければ、たぶん場は丸く収まる。 相手も安心する。 自分も慣れている。
でも、もうその役割に戻ることに、どこか違和感がある。
Aも悪くない。 Bも悪くない。
でも、どちらにも自分がいない感じがする。
続けたい気持ちはある。 けれど、同じ形ではもう続けられない感じもある。
決めた瞬間に、何かが死ぬ
こうなってくると、自分の中に、なんとも言えない曖昧さが居座る。
進みたいのに、サクサク進めない。 やりたいのは本当なのに、形にすると何か違う。 決めたいのに、決めた瞬間に違和感が出る。
この感覚は、けっこうしんどい。
なぜなら、自分でも説明しにくいからだ。
やりたくないわけではない。 でも、やろうとすると違う。
決めたくないわけではない。 でも、決めると何かが死ぬ。
今のままでいたいわけではない。 でも、次の形もまだ分からない。
だから多くの場合、私たちはそこで自分を責める。
意志が弱いのかな。 考えすぎなのかな。 行動力が足りないのかな。 また先延ばししているだけなのかな。
でも、僕はたぶん、違うと思う。
少なくとも、いつもそうとは限らない。
新しい基準が生まれる前に
それは意志の弱さではなく、新しい基準が生まれようとしている時期なのかもしれない。
古い基準では、もう選べない。 でも、新しい基準は、まだ形を持っていない。
その移行期にいるのではないか。
古い基準は、別に悪者ではない。
昔の成功パターン。 昔の自分らしさ。 昔の役割。 昔のやり方。
それらは、自分を支えてくれたものだ。 そこに救われたこともある。 それがあったから、ここまで来られた。
でも、今の自分にはもう少し狭い。
息がしづらい。 感覚がついてこない。 そこに戻ろうとすると、どこかで自分が薄くなる。
かといって、新しい基準はまだ生まれきっていない。
「そうだ、これだ」 「この方向で行こう」 「私はこれをやっていくんだ」
そう言えるほどの実体は、まだない。
だから揺れる。
古い自分には戻れない。 でも、新しい自分も、まだ形になっていない。
その狭間で、私たちは中ぶらりんになる。
プレグナントという見立て
実は、この状態を表す言葉がある。
「プレグナント」。
直訳すると、妊娠している、何かをはらんでいる、という意味だ。
まだ言葉にはなっていない。 まだ形にもなっていない。 でも、確かに何かが内側で動いている。
まだ生まれてはいないけれど、何かを含んでいる。
そういう、生まれる前の曖昧さ。
僕は、この言葉がかなり大事だと思っている。
なぜなら、名前がつくと、その状態に居場所ができるからだ。
それまでのモヤモヤは、ただの問題に見える。
早く解決しなければならないもの。 早く取り除くべきノイズ。 自分の未熟さの証拠。 行動できない自分の弱さ。
そう見えてしまう。
でも、「これはプレグナントなのかもしれない」と見立てた瞬間、そのモヤモヤの意味が少し変わる。
これは、ただの停滞ではないのかもしれない。 何かが生まれようとしているのかもしれない。 まだ形になる前だから、こんなに曖昧なのかもしれない。
そう思えるようになる。
これは、かなり大きい。
僕たちは、モヤモヤをすぐ問題にしてしまう。
早くクリアにしたい。 早く答えを出したい。 早く決めて、次に進みたい。
もちろん、それが必要な場面もある。
でも、何かが生まれようとしている時に、急いで結論を出しすぎると、その芽を潰してしまうことがある。
まだ芽なのに、雑草だと思って刈り取ってしまう。
一瞬はスッキリする。
「よし、もうこれはやめよう」 「踏ん切りがついた」 「次に行こう」
そう思える。
けれど、本当はそこから生まれるはずだったものまで、一緒に消えてしまうことがある。
せっかく新しい自分が顔を出そうとしていたのに、まだ小さすぎたから、自分でもそれを見分けられなかった。
そういうことが、人生にはあると思う。
曖昧さに居場所を与える
だから、この曖昧さに市民権を与えることが大事なのだと思う。
「ああ、これはプレグナントなんだ」 「何かが生まれようとしているんだ」 「まだ決めきれないのは、怠けているからではないんだ」
そう分かると、その曖昧さに居場所ができる。
居場所ができると、心に少しスペースが生まれる。
すると、すぐに答えを出さなくてもよくなる。
モヤモヤを抱えたまま、
「今、少しやってみたくなったことをやってみよう」 「これは今日はやらないでおこう」 「まだ決めないで、もう少し見ていよう」
と選べるようになる。
もちろん、選んでもモヤモヤは残る。
プレグナントなのだから。
でも、もうそれは敵ではない。
その居心地の悪さそのものが、
「今、何かがちゃんと始まっている」 「まだ生まれきっていないものがある」 「だから、しばらく見てあげる必要がある」
というサインになっていく。
それは問題ではなく、始まりかもしれない
僕たちは、「問題解決こそが大事だ」と思い込みすぎているのかもしれない。
人生はクリアであるべき。 早く答えを出すべき。 迷いは少ない方がいい。 曖昧さは取り除くべき。
そういう理解の中にいると、プレグナントな状態はとても扱いにくい。
なぜなら、それはすぐには答えにならないからだ。 すぐには成果にならない。 すぐには説明できない。 誰かに見せても、たぶんまだ分かってもらえない。
でも、だからこそ大切な時期がある。
クリアではないからこそ、何かをはらんでいる時期がある。
まだ決めきれないあなたは、壊れているのではない。
前の成功パターンでは、もう選べない。 でも、新しい自分の基準も、まだはっきりとは見えていない。
その狭間にいるから、揺れる。
その曖昧さは、弱さではなく、何かをはらんでいる状態なのかもしれない。
だから、すぐに更地にしなくていい。
無理に踏ん切りをつけて、バッサリ切らなくてもいい。
今、あなたの中で何かが生まれようとしている。
そう見立てた時、モヤモヤは少し違って見えてくる。
それは問題ではなく、始まりかもしれない。
まだ決めきれないのは、何かが生まれている途中だからかもしれない。
そして僕は、それをとても大切なことだと思う。
踏ん張る力
固執せずに、もうひと踏ん張りするために