踏ん張る力
固執せずに、もうひと踏ん張りするために
踏ん張る力というのは、とてつもなく重要だと感じる。 最近、しみじみとそう思うようになった。
踏ん張る力というのは、とてつもなく重要だと感じる。
最近、しみじみとそう思うようになった。
これは、ただ根性論として頑張ろう、という話ではない。集中力が続かない日、ポモドーロさえ途切れる日、生活のリズムに戻るだけで精一杯の日に、それでも固執せず、自分を支え直す力の話だ。
踏ん張る力とは何だろうか。
それは「持ちこたえる力」であり、文字通り地球を支えているアトラスのように、足腰を踏ん張り、腕に力が入り、「自分ならこれを支え切ることができる」と内面から静かに感じているような状態である。
大げさに聞こえるかもしれないが、本当にそういう感覚がある。
まだ見通しが十分についていないこともある。
望ましいゴールにたどり着くためには、幾多の試行錯誤が必要だと分かっていることもある。
あるいは、目の前にあるものが、どう考えても簡単ではないこともある。
それでも、踏ん張る力がある時は、
「大丈夫。これは、やり切れる」
という感覚がある。
根拠があるような、ないような。
でも、ないわけでもない。
自分の身体の奥のほうに、まだ使える力が残っていることを知っている感じだ。
この感覚が、とても大事なんだと思う。
しかし、毎日がそういう気力に満ちた日であるというわけにはいかない。
時には脆弱な、意志の弱まった日になってしまう場合だってある。
そういった時は、まるで別人のようになる。
「もうできない」
「これからどうするんだろうか」
「このままここで朽ち果てるんだろうか」
という気持ちにさえなる。
どうだろうか。
環境は同じなのに、環境に対する受け取り方がまるで違ってくるのだ。
同じ部屋。
同じ机。
同じ仕事。
同じ人生。
それなのに、踏ん張れる日には「まあ、なんとかなる」と思えるものが、踏ん張れない日には「これはもう無理だ」と見えてしまう。
この差は何なのだろうか。
その実体は、自分が生き物だからだと思う。
生き物であるからこそ、脆弱な時期もある。
環境を手強く感じる時もある。
自分の力を低く見積もり、「もうできない」という判断になってしまうこともある。
そして事実、この解釈とこの状態では、持ちこたえることなどできないと思う。
つまり、踏ん張れないのだ。

当たり前にあると思っていたもの
調子のいい時や、調子よく頑張れている時の人たちというのは、この「踏ん張る力」というものに対して、かなり無自覚である。
もちろん、これは批判ではない。
私自身もそうだった。
人生はやる気次第である。
挑戦する心さえ失わなければ、何とかなる。
前向きに取り組み続ければ、道は開ける。
そういうマインドセットを持っている。
そして、そのマインドセットは確かにその通りだと思う。
チャレンジする心、挑戦する心がある限り、心は若い。
年齢に関係なく、それを「若さ」と呼んでいいと思う。
私自身のことで言えば、50代の前半ぐらいまでは、基本的に調子が良かった。
だから「人生は何とかなる」という前提が、大きく揺らぐことはなかった。
自分のモチベーションさえ保っていれば大丈夫。
やるべきことをやっていれば大丈夫。
疲れても、少し休めばまた戻れる。
そういう信念があった。
ところが、最近の自分を観察していて、思うところがある。
踏ん張る力がある時と、踏ん張る力がない時の落差が、あまりにも大きくなってきたのだ。
この落差が、自分でも少し驚くほど大きい。
だからこそ、こういう文章を書いている。
この少なからず感じている驚きと戸惑いを、どこかに置いておきたくなってきたのだ。
簡単に言うと、
「若い時は踏ん張りが利いたが、最近はそうでもない」
という話になってしまうだろう。
とてもありきたりな、当たり前の結論だ。
そんなことは多くの人が知っている。
年齢を重ねれば体力も変わるし、気力も変わる。
回復力も変わる。
そんなことは、まあ、そうだろうという話である。
しかし、自分の身体を通してそれを知る時、やはり少し違う。
知識として知っていたことが、ある日、体験として目の前に出てくる。
すると、当たり前のことなのに、ちょっと驚く。
以前は当たり前にあると思っていたその踏ん張る力が、だんだんと発揮できなくなってくる。
自然の摂理のような、当たり前の現実を改めて目にし、体験して、少々驚いている。
今のところ、たぶんそういう話なのだと思う。
『パーソナルMBA』を開いてみた
当たり前じゃないものだと身にしみて実感したからこそ、向き合うことができるとも言える。
手元に、ジョシュ・カウフマンが書いた『パーソナルMBA』という書籍がある。
なんとなく開いてみると、その中に「Working with Yourself」という章があった。
自分と上手に付き合う。
そんな意味合いだろう。
せっかくだから、ここに書かれていることを改めて学んでみようと思った。
答えを探すというより、自分の前に一度、材料を置いてみたかったのだ。
最初に出てくるのは「単一理想主義」、つまり「モノ・イデアイズム」だ。
簡単に言えば、私たちが生産性を高めようとしている時、具体的に何を狙っているのかということだ。
理想的には、一度に一つのテーマに全精力と意識を集中させる。
単一理想主義というのは、文字通り「対立なしに一つのことだけにエネルギーと注意を集中させる状態」を指す。
他の表現で言えば、チクセントミハイのいうところの「フロー」の状態に近い。
ただ、これはなかなかに要件が高い。
気が散ってはいけない。
中断されてはいけない。
余計な判断や疑いが、頭の中でぐるぐるしていてもいけない。
心が研ぎ澄まされ、100%の実行モードにある時にこそ、多くのことができる。
確かにその通りである。
この本には、どうすれば確実に「単一理想主義」の状態になれるかについて、次のようなステップが書かれている。
まず、周囲の散漫な要素や中断を取り除く。
絶対に邪魔の入らない環境を作る。
耳栓や音楽を活用する。
電話やウェブ接続を切り、徹底して遮断する。
次に、隠れた葛藤を明らかにして解決する。
内面的な対立を取り除く。
二つの制御システム間の葛藤を解消する。
心の中に葛藤があると、物事を始めるのは難しい。
作業前にこれらを取り除くことで、初めて単一理想主義の状態が実現できる。
そして、「ダッシュ」によって注意のプロセスを促進させる。
いわゆる「ゾーン」に入るには10分から30分かかるため、あらかじめその時間を予定に組み込んでおく。
このダッシュの時間を経ても生産的になれない場合は、自分に中断の許可を与えて他のことをすべきだが、実際には一度始めれば容易に継続できる。
なるほどと思う。
私自身の経験を振り返ると、「内部対立を取り除く」ことは、職業柄、かなり意識してきた。
ただ、私個人としては「取り除く」というより、対立する場所をそのまま認めてあげたり、自然に統合していったりする感覚に近い。
無理にいじくり回しては、本当の意味での解決にはならないからだ。
心の中にあるものを「邪魔だから消す」と扱うと、かえってこじれる。
むしろ、それがそこにある理由を見てあげる。
そのうえで、自然に形が変わっていくのを待つ。
そういう感じに近い。
著者であるカウフマンは、「ダッシュ」テクニックの一つとして、「ポモドーロ・テクニック」を挙げている。
25分間という短時間であれば、気が進まないことでも着手しやすい。
その間は外からの干渉を無視するというルールも設定しやすい。
これも確かに分かる。
ただ、ポモドーロ・テクニックについては、かつて熱中したものの、私にはあまり馴染まなかった。
自分一人で生きているわけではない以上、たとえ25分間であっても、周囲のちょっとした話しかけを完全に無視することは難しい。
相手にしてみれば、数十秒で済む用件である。
それを、こちらの都合で20分以上も待たせるのは、理不尽に映るだろう。
自分の仕事の効率のために、周囲に我慢を強いる。
その「傲慢さ」は、なかなか長続きしない。
もちろん、
「今から25分間、ポモドーロをやるから、その間は話しかけないでね」
と宣言してからやれば、また周囲の理解も違うだろう。
ただ、私のような気まぐれに何かを思いついて、すぐやりたい人間にとっては、思いついた瞬間にポモドーロ・テクニックをやりたくなってしまう。
そして、いざ始まると、
「自分のルールだから、話しかけるのはご法度だ」
というふうに、周りをピリつかせてしまう。
こうした「自分ルール」というのは、周囲の理解があってこそ成立するものなので、やはり向き不向きがあると感じる。
私の場合、思いついたらすぐ始めて、飽きたらすぐにやめてしまう。
たとえば、こうなる。
①「25分間は話しかけるのNG。その後にちゃんと聞くから」と同意を取る。
②しかし、そのポモドーロというテクニック自体に、自分が飽きてしまう。
③周りは25分間待つ気でいたのに、気がついたら本人がもうやめている。
そうなると、周囲としては、
「どうしろというのだ」
という感じになるのだろう。
申し訳ないと思う。
踏ん張る力に固執してしまう
いろんな努力や工夫をして、この「踏ん張る力」そのものを保とうとすると、次はどうしても執着が芽生えてくる。
ここが厄介だ。
踏ん張る力は大事である。
集中する力も大事である。
フローに入ることも、単一理想主義の状態になることも、仕事をするうえではとても大切だ。
しかし、それを大切にしすぎると、今度はそれを守ることに必死になってしまう。
さっきまであんなに集中できていたのに、ちょっとしたノイズが入ったり、中断を強いられたりした瞬間に、それまでの集中力が消えてしまう。
こうなると、どうしても他責になる。
「集中していた空間を乱された」
「邪魔が入った」
「せっかくいいところだったのに」
というように、周囲に対して非常に敏感になってしまうのだ。
これは私だけでなく、自分で仕事をしている人には共通の悩みだろう。
大舞台に立つ俳優のような人でも、家でセリフの練習をしている時に家族に話しかけられたりすると、非常に気が散って参ってしまうという話を聞く。
特に子育て世帯では、夫が暇そうにしているのを見て、
「子供の面倒を見て」
と言うのは当然のことだ。
しかし、本人からすれば、頭の中では絶賛集中の境地だったりするとのこと。
外から見ると暇そうでも、内側ではかなり忙しい。
それで集中力が途切れてしまうこともある。
残念だね、と思う。
ただ、大事なのは、みんな一人で生きているわけではないということだ。
自分がリラックスして都合のいい時だけ仲良く話をして、いざ集中する時には、
「一言も話しかけるな」
というのは、あまりにも自分勝手で都合が良すぎる。
もちろん、集中できる環境を整えることは大切だ。
邪魔されない時間を持つことも大切だ。
人に説明し、協力してもらうことも大切だ。
しかし、それでもなお、生活というものはある。
家族もいる。
他人もいる。
予定外のことも起きる。
こちらの集中状態など、世界は知らない。
だから、そんなふうに他責にしてもどうしようもない。
やはり、執着を手放すしかない。
我々のように「集中すると仕事がノってくる」タイプにとって、踏ん張る力や集中する力は、とても貴重な資源だ。
だからこそ、それを守りたくなる。
消えないようにしたくなる。
奪われたくないと思う。
でも、踏ん張る力というのは、たぶん握りしめるほど逃げていく。
「踏ん張らなければ」
「集中しなければ」
「この状態を失ってはいけない」
と思った瞬間に、もう少し力みが入っている。
踏ん張る力なのに、力みすぎると踏ん張れない。
このあたりが、なかなか面白いところだと思う。
今日はあれこれテクニックを述べてきたが、それらは心がける程度に留めて、あとは習慣化・ルーティン化してしまうのが良いと思う。
ルーティンの良いところは、意志の力を必要としないことだ。
一度決めてしまい、自分との相性さえ合えば、気分が良い日も悪い日も実行できてしまう。
実際に、私の中で長く続いている習慣で言えば、早朝のお皿洗いルーティンがある。
朝起きて、没頭できるものがあると、実はプレパフォーマンスルーティンとして、なかなか良いのだ。
何かをする前にそれをやっておくと、その後の調子が良い。
そういうやつである。
お皿洗いは、かなりフローと相性がいい。
最初に予洗いをする。
次に洗剤をつけて洗う。
そして、徹底的にきれいにする。
ただそれだけなのだが、あれこれ考えずに没頭できる。
水の音があり、手を動かす感覚があり、汚れが落ちていく手応えがある。
終わった時には、ちゃんと目に見えてきれいになっている。
こういうものは、本当にその後の集中力を高めてくれる。
適度に発散できるのか、リラクゼーション効果もある。
つまり、お皿洗いをしている最中に、緊張を放電しているんだろうと思う。
ただ、これも絶対ではない。
たまに、朝早く目が覚めすぎることがある。
なぜか4時頃に目が覚めてしまう。
そんな時は、やることもないので、できればルーティンを開始したい。
しかし、さすがに夜中や明け方頃にお皿をガチャガチャ洗うのははばかられる。
なので、遠慮する。
そうすると、微妙にルーティンがずれて、なんだか少し調子が出ない。
けれども、そうかといって、それで一日の調子が狂うわけではない。
あればあったで調子がいい。
なければないで、なんとかなる。
そのくらいの感じのルーティン、習慣化がいいのかなと思う。
つまり、「執着なく続ける」ということがいいのだろう。
確かに、ルーティンを乱されたらイラッとすることもある。
それはある。
それはあるのだが、基本的にはまた軌道修正して、元のルーティンに戻りやすい。
つまり、
「続けるぞ」
という気構えではなく、
「そう決めたから、そうする」
という領域に入ってしまう。
良い意味で、意思決定がまったく関係ない場所に持っていく。
やる気があるかないかを、いちいち確認しない。
踏ん張れるかどうかを、いちいち審査しない。
歯を磨くように。
湯を沸かすように。
椅子に座るように。
皿を洗うように。
小さく始める。
そういうところに持っていければ、こっちのものだ。
踏ん張る力は大切である。
でも、踏ん張る力に固執しすぎると、踏ん張れなくなる。
だから、今の自分にとってはこうなのだと思う。
踏ん張る。
けれど、踏ん張りすぎない。
集中する。
けれど、集中を神聖視しすぎない。
環境を整える。
けれど、環境が乱れたからといって世界を呪わない。
そして、できるだけルーティンに任せる。
気合いではなく、仕組みに預ける。
執着ではなく、戻れる場所を作る。
固執せずに踏ん張る。
これこそが、今ちょうどいい塩梅なのだと思える。
迂回こそが、命の進み方
まっすぐ進めない時間の中で、生命は次の一手を探している